成果情報 代わる代わる互いを押さえ込む2つの脳部位がPTSD患者の恐怖ON症状とOFF症状をスイッチさせている

令和2年8月6日成果情報

株式会社国際電気通信基礎技術研究所(ATR)
国立研究開発法人日本医療研究開発機構(AMED)

本研究成果のポイント

  • 心的外傷後ストレス障害(PTSD)の患者は、強い恐怖を示すこともあれば、恐怖を過剰に抑制することもあります。これまでは、はたして同じ患者が双方の特徴を示しうるのか、あるいは、どちらか一方の特徴のみを示すのか、明らかとなっていませんでした。
  • 私たちは、同じ患者が強い恐怖とその過剰な抑制を交互に繰り返すことを示す脳科学的なエビデンスを世界で初めて発見しました。具体的には、患者の脳内では、恐怖のONとOFFの二つの状態がせめぎ合いながら交互に現れていることが確認できました。また、そうした恐怖のONとOFFの交替が、扁桃体と腹内側前頭前野が代わる代わる相手を抑制する(相反抑制[1])ことにより生じていました。
  • 本成果は、PTSDの診断や治療の改善に繋がりうるものであり、脳科学の新しい観点からの臨床への貢献が期待されます。また、本成果は、PTSDを発症していない健康な人の、恐怖のダイナミクスも広く説明できるものであり、科学的にも重要と言えます。

概要

株式会社国際電気通信基礎技術研究所(略称ATR)・脳情報通信総合研究所の千葉俊周(連携研究員)、井手健太郎(客員研究員兼しんちクリニック及び光の花クリニック(医師))、Jessica E. Taylor(研究員)、ソニーコンピュータサイエンス研究所の小泉愛(アソシエートリサーチャー)兼ATR(客員研究員)等の研究グループは、PTSD患者の脳科学的データをもとに、PTSD症状のダイナミクスを説明する「相反抑制モデル」を世界に先駆けて提案しました。

このモデルでは、一人の患者内で、2つの脳部位がシーソーのように代わる代わる互いを押さえ込み(抑制し)あいます。そしてシーソーの傾きの切り替わりに応じて、恐怖のON症状を示す状態と、恐怖のOFF症状を示す状態という相反する二つの状態が切り替わります。本成果は、シーソーの傾きに応じた適切なタイミングで治療を施すテーラーメイド医療への応用など、今後のPTSD治療への大きな貢献が期待されます。このモデルは、一般の恐怖状態も広く説明できるものであり、科学的にも社会的にも重要な意義を持ちます。

背景

PTSDは交通事故や震災、洪水、虐待などのトラウマ体験をきっかけとして発症する精神疾患です。

PTSDはトラウマ体験に関する強い恐怖反応を示す症状(恐怖のON症状)が特徴的な疾患ですが[2]、その一方で、恐怖の過剰な抑制による症状(恐怖のOFF症状)を示す場合もあります[3]。恐怖をOFF状態にすることは、感情をシャットダウンすることで苦痛から逃れる手段ではありますが、喜びや楽しみなどのポジティブな感情までもOFFにしてしまうため、かえって苦痛が強くなってしまうことも少なくありません。恐怖のON症状を主に示す患者は「非解離型」、OFF症状を主に示す患者は「解離型」のPTSDとして診断されます。

このようにPTSDは、恐怖のON症状とOFF症状、二つの相反する症状を引き起こします。これまで臨床や研究では、「この患者が主に示すのはON症状なのかOFF症状なのか」という問題に焦点が当てられ、同じ患者はON症状とOFF症状のうち片方ばかりを示すかのように扱われてきました。しかし、臨床的には多くのPTSD患者で、ON症状とOFF症状の両方がみられます。具体的には、自分自身の周りへの感覚に注意が向かなくなった恐怖のOFF症状と、逆に周りを注意・警戒する恐怖のON症状を代わる代わる示していました。こうした多くのPTSD患者の実態を踏まえ、私たちは同じ患者内でのON-OFF間の切り替わりを科学的に示すこと、および切り替わりのメカニズムを説明することに取り組みました。

研究内容

研究では、まず、同じPTSD患者が、恐怖への過剰な反応(ON行動)と抑制(OFF行動)を交互に示すことを、恐怖刺激を検出するというシンプルな実験課題(図1上)を通して明らかにしました。一般的に、PTSD患者は常に警戒態勢にあり、恐怖刺激を素早く検出すると報告されてきました(恐怖のON行動)。一方で、一部のPTSD患者は恐怖刺激の検出が遅い(恐怖のOFF行動)という報告もあり、前述の症状に関する論争と同様に、ON行動とOFF行動のどちらがPTSDを特徴付けるのかは、長年議論の的となってきました。私たちは、同じ患者が恐怖刺激を素早く検出するON行動と遅く検出するOFF行動を交互に呈することを示しました(図1下)。また、恐怖のON行動とOFF行動の程度が、各患者のON症状とOFF症状の重症度と関係することを確認し(図2)、患者の行動様式だけでなく症状までが連動しながら恐怖のON状態とOFF状態が交替することを明らかにしました。

図1 恐怖画像への反応の速さを計測する実験。実験では恐怖画像が徐々に見えてくるよう設計し、画像を認識できるまでの時間を計測しました。その結果、同一患者において、恐怖画像に素早く反応する「恐怖のON状態」の時と、ゆっくりと反応する「OFF状態」の時があることが示されました。赤い線はONとOFFが混在するというモデルの予測です。青い線は混在しないという対立モデル。結果は赤い線のモデルを支持するものとなりました。
図2 上:恐怖画像への反応の速さと症状の関係。恐怖画像への素早い反応(恐怖のON状態)と遅い反応(OFF状態)に分けて解析しました。前者は再体験症状(恐怖ONの症状)とのみ、後者は回避症状(恐怖OFFの症状)とのみ関係することが示されました。
下:素早い反応(恐怖のON状態)と遅い反応(OFF状態)を合算して解析しました。恐怖画像への反応は再体験症状(恐怖ONの症状)が強いほど速く、回避症状(恐怖OFFの症状)が強いほど遅くなることが示されました。メタ解析(過去の研究もの網羅的解析)でも同様の傾向が確認されました。

さらに私たちは、同一患者における恐怖のONとOFF状態の切り替わりを説明できる脳神経メカニズムのモデルを提唱しました。一般的に、拮抗する二つの状態の自発的な交替は、相互に抑制しあう二つの脳領域により説明できることが知られています[1]。そこで私たちは、同一の患者における恐怖のON-OFFの交替が、扁桃体[4]という恐怖を促進する領域と、腹内側前頭前野[4]という恐怖を抑制する領域が互いを抑制し合うことで引き起こされる相反抑制モデルを考案し、実際の患者の脳活動データを用いてモデルを検証しました。このモデルでは、扁桃体が活発な時は恐怖刺激を素早く検出するON行動が誘発され、恐怖ONの症状が悪化すると予測されます。一方で、腹内側前頭前野が活発な時は恐怖刺激を遅く検出するOFF行動が誘発され、恐怖OFFの症状が悪化すると予測されます。

本研究では、過去に報告されたPTSD症状を示す316人分のデータを用いた大規模な解析を通して、PTSDの相反抑制モデルを支持する結果を得ました(図3)。

図3 左扁桃体の活動の強さと症状の関係のメタ解析。扁桃体の活動は再体験症状(恐怖ONの症状)が強いほど活発になり、回避症状(恐怖OFFの症状)が強いほど活動が弱くなることが示されました。

これらの結果は、従来の「PTSD患者は一般的に過剰な恐怖反応を示すのか、あるいは過剰な抑制をするのか?」という問いに終止符を打ち、「この患者は、今この時点で、恐怖に過剰反応をする状態にあるのか、抑制する状態にあるのか?」という新たな問いの形を精神医学と脳科学の分野に投げかけるものといえます。

本研究の意義と今後の展望

今回の研究で焦点を当てた、「恐怖刺激の検出速度」と「扁桃体の活動性」は、いずれも従来のPTSD治療(持続曝露療法[5])の効きやすさと深く関係することが知られています。具体的には、恐怖刺激の検出速度が速く、扁桃体が活発なほど治療が効きにくいことが知られています。一方で、扁桃体の活動性が過剰に抑制されている患者群でも同様に治療が効きにくいことが知られています。つまり、扁桃体の活動は強すぎても弱すぎても治療の妨げになり、活動が適度なタイミングで治療を実施する必要があるのかもしれません。今回の成果を踏まえ、治療の効きやすい適切なタイミングで治療をすることで、従来治療法の効果の飛躍的な向上が期待できます。

また、本研究が提唱する恐怖の相反抑制モデルは、症状の周期的な変動を説明できるため、症状変動の予測にも役立つ可能性があります。このモデルを活用し、アプリなどの形で患者が日常生活で利用できるようにすれば、例えば、「重要な会議は症状の調子が悪そうな今週ではなく、調子が良さそうな来週にスケジュールしよう」、「6日後にものすごく症状が悪くなりそうだからその前に通院して主治医と相談しよう」というように、PTSD患者が自身の症状とうまく付き合い、日常や治療の予定をたてるのに役に立つかもしれません。

さらに、今回得られた知見にはPTSD患者以外にも応用できる汎用性もあります。恐怖を処理する脳回路はPTSDに特有なものではなく、誰しもが持つ脳回路です。そのため、恐怖のON-OFFを切り替えるメカニズムもPTSD患者とそれ以外の人で共通していると考えられます。例えば夜中にきっかけもなく突然不安になったり、母親から離れてご機嫌に遊んでいた子供がふと母親の不在に気づいて不安になるという状態です。こういった現象も相反抑制モデルによる恐怖のON-OFFの切り替わりで説明できるかもしれません。今回の成果は、一般の恐怖や不安と関係した精神的な悪影響への予防や対応にも活かせることが期待されます。

論文著者名とタイトル

Molecular Psychiatry誌(英国時間2020年7月20日1時00分公開)
Toshinori Chiba, Kentaro Ide, Jessica E. Taylor, Shuken Boku, Hiroyuki Toda, Tetsufumi Kanazawa, Sumie Kato, Yuka Horiuchi, Akitoyo Hishimoto, Toru Maruyama, Taisuke Yamamoto, Miyako Shirakawa, Ichiro Sora, Mitsuo Kawato, Ai Koizumi
A reciprocal inhibition model of alternations between under/over emotional modulatory states in patients with PTSD.
Molecular Psychiatry
URL:https://www.nature.com/articles/s41380-020-0827-0

研究グループ

株式会社国際電気通信基礎技術研究所(ATR) 千葉俊周※1、井手健太郎※2、Jessica E. Taylor、川人光男※3※1神戸大、自衛隊阪神病院と併任、※2しんちクリニック及び光の花クリニックと併任、※3理研AIPと併任)
国立大学法人神戸大学 朴秀賢※4、菱本明豊※5、曽良一郎(※4熊本大と併任、※5横浜市立大と併任)
防衛医科大学校 戸田裕之
学校法人大阪医科大学 金沢徹文
千代田心療クリニック 加藤澄江
陸上自衛隊・部隊医学実験隊 堀内有香
自衛隊中央病院 丸山徹
陸上自衛隊西方総監部 山本泰輔
光の花クリニック 白川美也子
株式会社ソニーコンピュータサイエンス研究所 小泉愛※6※6ATR及び慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科と併任)

研究支援

本研究は、内閣府革新的研究開発推進プログラム(ImPACT)「脳情報の可視化と制御による活力溢れる生活の実現」及びAMED戦略的国際脳科学研究推進プログラム『脳科学とAI技術に基づく精神神経疾患の診断と治療技術開発とその応用』課題JP18dm0307008(代表川人光男)の研究として行われたものです。また千葉俊周連携研究員、川人光男所長は、KDDI共同研究契約からの支援も部分的に受けています。

補足説明

[1]相反抑制モデル
二つの相互に抑制し合う脳領域間のニューラルネットワーク。相反抑制するニューラルネットワーク(下図の赤と緑で示した脳領域)において、片方の領域(赤の脳領域)の活動が優位な時、もう片方の領域(緑の脳領域)は活動が抑制されています。神経細胞の疲労(※)などのメカニズムにより、時間経過により優位な脳領域が逆転します。その結果、元々優位であった脳領域(赤の脳領域)は、今度はその活動が抑制されます。このように、相反抑制モデルでは優位な脳領域の自発的な交替が生じます。
※神経細胞の疲労:活動に必要なエネルギー(神経伝達物質)の枯渇などに伴い神経活動が
段々弱くなっていく現象
[2]恐怖のONによる症状
PTSD患者が示す再体験や過覚醒といわれる症状。再体験は、疾患の原因となったトラウマをあたかも再体験しているように思い出したり、悪夢にみたりする症状を指す。過覚醒は、過度な警戒心や驚愕反応、睡眠障害などの症状を指す。いずれも、過剰な恐怖の表出(=ON)による症状と考えられています。
[3]恐怖のOFFによる症状
PTSD患者が示す回避や解離といわれる症状。回避は、疾患の原因となったトラウマを避ける症状や感情を麻痺させる症状を指す。解離は、非現実感(周囲の物事が現実ではないように感じられること)や離人感(自分が自分でないように感じること)などの症状を指す。いずれも、恐怖の過剰な抑制(=OFF)による症状と考えられています。
[4]扁桃体と腹内側前頭前野
扁桃体は側頭葉内部の奥に位置し、恐怖や不安、怒りなどの本能的な情動反応を処理します。扁桃体を除去すると恐怖や不安の感情を持てなくなり、危険なものを危険と認識できなくなります。扁桃体を除去されたサルは、天敵である蛇を見ても逃げようとせず捕まえて口に入れようとするような反応を示します。このように、扁桃体は天敵や危険を素早く察知し対応するために必要不可欠で、個体の生存、種の存続において非常に重要な役割を占めてきました。サルやマウス、トカゲのような動物にもある原始的な脳部位であることが知られています。
一方、腹内側前頭前野は脳の前方、前頭葉の中でも中心より(左脳と右脳の接する面)に位置し、恐怖を含む情動や衝動性を抑え込む働きがあります。前頭前野の機能を有名にした例として、同部位を事故で損傷したアメリカ人のフィニアス・ゲージの例があります。彼は、事故前は理知的で温和でしたが、事故後には自分の欲望や感情を抑えられない無礼で衝動的な人物になりました。その変貌ぶりは友人や知人から「もはやゲージではない」と称されるほどだったといいます。このように前頭前野はヒトの理性的・知的な行動を可能とする脳部位としても考えられており、系統発生的にも進化した動物ほど発達していることが知られています。
かなり大雑把に簡単に例えれば、二つの脳領域の関係は、「本能」を司る扁桃体を、「理性」を司る腹内側前頭前野が抑え込むという構図になっています(ジョセフ・ルドゥー「情動の脳科学」2003)。本研究で提案された相反抑制モデルでは、「理性が本能を抑え込む」だけでなく、「本能もまた理性を抑え込む」ことを示し、その2つがせめぎ合って、どちらが優位に立つかが時間的に交替することを示しています。事実、腹内側前頭前野が扁桃体を抑え込む回路に加えて、扁桃体が腹内側前頭前野を抑え込む回路が存在することが示されています。
[5]持続曝露療法
PTSDの症状改善に最も効果があるとされる治療法です。治療の中でトラウマ記憶と向き合うことで、患者はその記憶を処理する術を学びます。多くの患者で一定の効果が確認されているものの、治療が効きにくい患者も存在します。治療前の扁桃体の活動が活発なほど治療が効きにくいこと、(扁桃体の活動が過度に抑制されている)解離型のPTSD患者では治療が効きにくいという一見矛盾する治療の効果が知られていました。

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最終更新日 令和2年8月6日