プレスリリース iPS細胞を用いて「内耳変性」という難聴の新たな原因と、その治療薬候補物質を発見―さまざまな難聴の原因解明と治療法開発につながる成果―
プレスリリース
慶應義塾大学医学部
国立研究開発法人日本医療研究開発機構
慶應義塾大学医学部生理学教室の岡野栄之教授、耳鼻咽喉科学教室の小川郁教授らは、NHO東京医療センターの松永達雄部長と共同で、患者のiPS細胞を用いて遺伝性難聴のPendred(ペンドレッド)症候群の原因を明らかにし、新規治療法を発見しました。
Pendred症候群は進行性の難聴やめまい、甲状腺腫を引き起こす病気ですが、遺伝子改変マウスではヒトのような進行性の難聴にならず、治療法の開発が進展しませんでした。
本研究チームでは、患者の血液からiPS細胞を作り、内耳の細胞に誘導し、難聴を引き起こすメカニズムを探りました。その結果、患者からの内耳の細胞内においてのみ異常なペンドリン(PENDRIN)タンパク(注1)が蓄積し、アルツハイマー病などの神経変性疾患と同様の凝集体(注2)が作られていました。この内耳細胞は細胞ストレスに脆弱であり、内耳の細胞死によって、難聴が徐々に進行していくことが示されました(「内耳変性」仮説)。
さらに、本研究チームではこの細胞死を防ぐ治療薬候補を探し、すでに免疫抑制剤として用いられているシロリムス(Sirolimus,別名ラパマイシン)に治療効果がある可能性を、世界で初めて発見しました。
内耳は骨の内部にあるリンパ液に満たされた臓器で、検査のために細胞を採取することはできず、難聴が進行していく過程を観察できません。患者iPS細胞を活用した本研究成果によって、アルツハイマー病などと同様の現象が内耳でも生じるという予想外の結果が導き出され、今後、老人性難聴を含めた難聴研究に大きなパラダイムシフトをもたらす可能性があります。また、本研究を通して開発した、ヒトiPS細胞から内耳細胞を効率的に安定して作成する方法は、これまでに効果的な治療法のなかった様々な遺伝性難聴の治療法開発や、原因不明の難聴の創薬研究に大きく寄与するものと期待されます。
本研究成果は2017年1月3日に「Cell Reports」に掲載されました。
研究の背景と概要
老人性難聴や突発性難聴、メニエール病などに代表される難聴の多くは内耳に原因があることが知られており、65才以上の人口の30~40%が難聴によりハンディキャップを有しています(WHO による報告)。また、先天性疾患の中でも難聴はもっとも頻度が高く(新生児500~1000人に1人)、その約半数は遺伝性難聴(注3)です。
内耳は骨の内部にあるリンパ液に満たされた臓器で、検査のために細胞を採取することはできず、難聴が進行していく過程を細胞レベルで観察できません。これまで遺伝性難聴の研究は患者の遺伝子変異を持つマウスを作成して観察することで進んできましたが、一部の遺伝性難聴では、そのヒト型遺伝子変異マウスを作成しても難聴を起こさないことがこれまでしばしば報告されていました。研究対象となるモデルがないと治療を目指した研究が進められません。
Pendred症候群(注4)は、遺伝性難聴の中で2番目に患者数の多い病気で、SLC26A4遺伝子の変異によるペンドリン(PENDRIN)タンパクの異常が原因であることが知られています。本疾患の患者は進行性の難聴を起こしますが、この病気でもヒト型遺伝子変異マウスは進行性難聴を再現できないため、なぜ本疾患の難聴が進行していくのかをうまく説明することはできていませんでした。このため、治療法の開発は難しいと考えられていました。
研究の成果
研究チームはまず、ヒトiPS細胞から内耳細胞を効率的に安定して作成する方法を開発しました。同時に、Pendred症候群患者の血液から疾患特異的iPS細胞(注5)を作製し、患者iPS細胞と健常者iPS細胞から内耳細胞をそれぞれ作成して、比較検討しました。
その結果、患者iPS細胞から作られた内耳細胞においてのみ細胞内に異常なペンドリンが蓄積し、パーキンソン病やアルツハイマー病などの進行性の中枢神経障害を呈する神経変性疾患(注6)にみられるような凝集体を作ることがわかりました。この内耳細胞はPendred症候群の患者では細胞ストレスに非常に弱く、細胞がより死にやすくなっていることがわかりました(細胞脆弱性)。続いて、疾患の難聴の進行の治療薬を開発するため、研究チームは複数の薬剤の中から、この細胞ストレスに対する細胞脆弱性を改善する薬剤を探しました。その結果、免疫抑制剤であるシロリムス(注7)が脆弱性を改善することを発見しました。
研究の意義・今後の展開
本研究によって、Pendred症候群の進行性難聴は、多くの神経変性疾患と同様のメカニズムによって進んでいくことが示唆されました(「内耳変性仮説」)。これは、マウスモデルの実験ではわからなかった研究成果であり、患者ヒト細胞を直接使えるというiPS細胞研究ならではの成果です。また、本研究によってシロリムスが進行性難聴を抑制する治療薬となる可能性が示唆されました。
今回使用した、ヒトiPS細胞から内耳細胞を作成する方法を用いることで、ヒト型遺伝子変異マウス作成で疾患モデルを作ることができなかった他の難聴に対しても研究を進められる可能性があり、今後このアプローチを用いることによって、他の遺伝性難聴疾患の病態解明や、新しい治療法の開発が期待されます。
内耳に原因のある進行性難聴には、遺伝子変異のほかにも多くのメカニズムが仮説として考えられていますが、ヒトの内耳の細胞は採取できないため、臨床現場では最後まで原因が明らかにならないことがしばしばあります(両側特発性難聴:注8)。研究チームはこれらの原因不明の進行性難聴の中に「内耳変性」を起こしている患者が含まれている可能性を考えており、今後このヒトiPS技術を用いたアプローチで徐々に明らかにしていこうと考えています。
説明図



特記事項
論文
- 表題:
- Cochlear cell modeling using disease-specific iPSCs unveils a degenerative phenotype and suggests treatments for congenital progressive hearing loss
(日本語訳:疾患特異的iPS細胞を用いた蝸牛細胞モデルが明らかにした蝸牛変性疾患と先天性進行性難聴に対する治療法) - 著者名:
- 細谷誠、藤岡正人、曽根岳史、岡本理志、赤松和土、鵜飼英樹、上田泰巳、小川郁、松永達雄、岡野栄之
- 掲載誌:
- Cell Reports 18, 1–14, January 3, 2017
用語解説
- (注1)ペンドリン(PENDRIN)タンパク:
- イオン交換に関わるタンパク質の一種で、このタンパク質が変化することでPendred症候群では、内耳障害や甲状腺腫を生じることが知られている。。
- (注2)凝集体:
- 正常なタンパク質は、正常な形をとることで不必要なタンパク質間の相互作用から守られているが、異常なタンパク質は正常な構造をとれなくなり、本来起こらないタンパク質間の相互作用が起きる。この結果、凝り固まり形成されるタンパク質などの集合体を「凝集体」という。
- (注3)遺伝性難聴:
- 難聴のうち、遺伝子の変化を原因として生じる難聴。
- (注4)Pendred症候群:
- 進行性難聴とめまい、甲状腺腫(甲状腺の腫れ)を特徴とする遺伝性の疾患。
- (注5)疾患特異的iPS細胞:
- 患者から作成されたiPS細胞の総称。今回のPendred症候群の疾患特異的iPS細胞であれば、Pendred症候群患者の血液から作成されたiPS細胞を指す。
- (注6)神経変性疾患:
- アルツハイマー病やパーキンソン病などのように徐々に神経が損傷し、進行していく病気の総称。これらの病気では、細胞内に不要なタンパク質の凝集体(塊)ができてしまうことが知られており、またダメージを受けやすくなることが知られている。
- (注7)シロリムス:
- イースター島の土壌に棲む菌から発見された物質で、免疫抑制剤として長年世界中で広く使われている。国内ではリンパ脈管筋腫症という難病で使用されている。別名ラパマイシン。
- (注8)両側特発性難聴:
- 原因不明の両側性の進行性難聴の総称。原因となる遺伝子変異や薬剤投与、加齢など原因が同定できた難聴は除外される。
- (注9)イオン交換障害:
- 正常な場合は、細胞の表面にあるさまざまなイオン交換輸送体がイオンを交換することによって、内耳のリンパ液のバランスが保たれている。PENDRINは陰イオンと重炭酸イオンを交換しており、マウスではこの障害によりリンパ液のバランスが崩れて奇形になる。
- (注10)内リンパ水腫:
- 内耳の中はもともと特殊な液体(内リンパ液、外リンパ液)に満たされているが、このうち内リンパ液が過剰に溜まってしまっている状態。
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E-mail:masato“AT”2002.jukuin.keio.ac.jp
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掲載日 平成29年1月11日
最終更新日 平成29年1月11日