プレスリリース 昆虫の体性感覚神経回路の構造を解明ー哺乳類との高い類似性を発見。脳が共通の祖先から進化した可能性が高まるー

プレスリリース

東京大学
国立研究開発法人日本医療研究開発機構

発表者

伊藤 啓(東京大学分子細胞生物学研究所 脳神経回路研究分野 准教授/ケルン大学 理学部動物学教室 教授/ハワードヒューズ医学財団ジャネリア研究所 シニアフェロー)

坪内 朝子(研究当時:東京大学分子細胞生物学研究所 脳神経回路研究分野研究員/現:東京大学大学院総合文化研究科 生命環境化学系社会連携講座 次世代イメージング画像解析学講座 特任助教)

矢野 朋子(東京大学分子細胞生物学研究所 脳神経回路研究分野 東京大学大学院新領域創成科学研究科 博士課程3年)

発表のポイント

  • 昆虫の体性感覚(触覚)を検知する末梢感覚神経から脳の高次中枢にいたる神経回路の全体像を、初めて体系的に解明しました。
  • 哺乳類の実験動物では不可能な、感覚神経系のなかの特定の1種類だけの神経の活動を検出したり、その神経だけの機能を操作したりする実験を可能にしました。
  • 明らかになった神経回路は哺乳類と非常に高い類似性を持っていました。これで五感のすべてについて、昆虫脳と哺乳類脳の基本回路構造がほぼ同じであることが明らかになり、両者がばらばらに進化したのではなく、先カンブリア紀の共通の祖先から進化した可能性が高まりました。

発表概要

東京大学分子細胞生物学研究所の伊藤啓准教授、坪内朝子研究員、矢野朋子大学院生らの研究チームは、キイロショウジョウバエを使って昆虫の体性感覚神経回路の構造を解明し、哺乳類のそれと極めて類似性が高いことを明らかにしました。視覚・嗅覚・味覚の神経回路の構造は非常に似通っていることが知られていましたが、私たちは数年前の研究で、音や重力を検知する中枢の構造も昆虫と哺乳類でほぼ同じであることを発見しています。体性感覚に関する今回の研究で、五感全ての神経回路構造に共通性が見つかったことになります。これによって、これら五感の基本を備えた脳を持つ生物が先カンブリア紀に存在し、その共通の祖先から、私たち哺乳類を含む脊椎動物と昆虫を含む節足動物が分かれてきた可能性が高まりました。

目・耳・鼻・口といった特定の感覚器官で検知される他の感覚と異なり、体性感覚は体中に散在するさまざまな感覚器官が脳に情報を送る複雑な構造をしています。私たちは、ショウジョウバエを使って一部の種類の細胞だけで遺伝子の発現を誘導できるような遺伝子組み換え系統を大量に作製してスクリーニングすることによって、すべての種類の体性感覚細胞をそれぞれ特異的に標識して、中枢神経系に伸びる神経線維を解析することに成功しました。また、人間の脊髄に相当する昆虫の胸腹部神経節で体性感覚細胞からの情報を受け取って脳に伝える二次神経も標識して解析しました。これによって、末梢の感覚器官から脳にいたる神経回路の構造が初めて明らかになりました。

今回の研究の手法では、発見されたそれぞれの種類の神経細胞だけで好きな遺伝子を発現させることができます。これを利用して、神経の活動度に応じて蛍光強度が変化するタンパク質を発現させてハエが歩いたり飛んだりするときにどの神経がどのように反応するかを調べたり、神経の電位変化を阻害するタンパク質を発現させてどの神経の機能を止めるとどのような行動変化が起きるかを調べたりすることによって、体性感覚に関する情報が神経の種類ごとに複雑なパターンで送られていることが分かりました。このように特異的な神経だけを体系的に操作する実験は、哺乳類の実験動物では非常に難しく、今後私たちが公開したショウジョウバエ系統を使って、体性感覚のさまざまな情報処理メカニズムを神経細胞レベルで解明する研究が盛んになると予想されます。

今回の研究で明らかになった「感覚器官の種類ごとに中枢神経系の異なる場所に情報が伝えられる」「体の場所ごとに異なる場所に情報が伝えられる」「同じ種類の感覚器官から異なる経路で送られる情報は、脳の同じ場所に伝えられる」といった基本構造は、哺乳類の神経系でも同じです。さらに、感覚器官から中枢に伸びる神経の末端部は、温度や痛みを感じる細胞、脚や翅にある味覚細胞、体毛の接触を検出する細胞、表皮の変形を検出する細胞、関節の曲がりや動きを検出する細胞の順に層を作っており、この順番は哺乳類と昆虫で同じでした。(哺乳類に対応するものがない味覚細胞を除く。)視覚・嗅覚・味覚・聴覚重力感覚など五感の他の全ての神経回路でも高い類似性が見つかっていることを考えると、ばらばらの進化の末に偶然による収斂進化がこれほど全ての場所で一致して起こったとは考えにくく、基本的な五感の処理機能を備えた脳を持つ共通の祖先がいたと考える方が自然です。

今年のノーベル医学生理学賞の対象となった体内時計は、最初にショウジョウバエで発見された仕組みが人間でも共通であることが知られています。私たちの研究成果は、昆虫と人間が体の仕組みだけでなく脳の仕組みにおいても予想以上に似通っていることを示しています。

発表内容

はじめに

五感のなかで視覚・聴覚・嗅覚・味覚の4つは、目・耳・鼻・口という特定の感覚器官で検知されます。これに対し体性感覚(触覚)の感覚器官は、体全体の表面や内部に散在しています。また、視覚なら光を感じる細胞、嗅覚なら匂いの分子と結合する細胞というように、他の感覚器官は似たような感覚細胞が多数並んで構成されています。これに対して体性感覚は、単に触覚だけでなく、温度や痛みを感じる細胞、体毛の接触を検出する細胞、表皮の変形を検出する細胞、関節の曲がりや動きを検出する細胞など、全く異なる形をしたさまざまな感覚器官から構成されています。

体じゅうに分布したさまざまな種類の体性感覚器官からの情報が、中枢神経系のなかでどのように統合されて脳に伝えられるのかは、まだよく分かっていません。私たち哺乳類では、体にある感覚器官から脊髄を通って脳に至る神経の大まかな経路は分かっていますが、その経路を構成する個々の神経細胞の詳しい構造や、刺激に対する反応のしかたなどを調べることは、実験技術的に困難が多く、まだ多くが未解明です。

【1】昆虫体性感覚神経回路の解明

東京大学分子細胞生物学研究所の伊藤啓准教授、坪内朝子研究員、矢野朋子大学院生らの研究チームは、キイロショウジョウバエを使って昆虫の体性感覚神経回路全体の構造を、今回初めて明らかにしました。昆虫の体にもさまざまな種類の体性感覚器官が存在し、それらが脳に情報を送っていますが、末梢の感覚器官から脳にいたる情報経路は、これまでごく一部しか分かっていませんでした。

私たちの研究室は、多数の神経細胞のなかのごく一部の種類だけで遺伝子の発現を誘導する、世界最大規模の「遺伝子発現誘導系統」のコレクションを持っています。まずこれをスクリーニングすることによって、脚や翅、胴体の表面などにある、すべての種類の体性感覚細胞について、種類ごとに特異的に遺伝子発現を誘導できるような系統を見いだしました。これらの系統を使って緑色蛍光タンパク質GFPなどを発現させることにより、末梢の感覚神経が中枢神経系のどこに投射するかを細かく解析しました。

感覚神経のほとんどは、哺乳類の脊髄に相当する「胸腹部神経節」に投射しており、その神経の終末部は、感覚器官の種類ごとに層状に重なった構造を作っていました。また、脚と翅にある感覚神経の一部は脳に直接投射しており、ここでも神経の種類ごとに、投射する場所は異なっていました。これによって、「異なる感覚器官からの情報は、中枢神経系の異なる場所に送られる」ことが分かりました。

さらに、脚にある多数の感覚器官から胸腹部神経節に投射する神経の末端は、円盤状の層が重なった構造をしていますが、脚の先端部にある神経からの線維は円盤の中心部に、付け根付近にある神経からの線維は周辺部に投射するという、同心円状の分布が見られました。脳への投射でも、前脚、中脚、後ろ脚からの神経や、翅と平均棍(後翅が変形したもの)からの神経は、隣りあってはいますが別々の異なる場所に投射していました。これによって、「体の異なる場所からの情報は、中枢神経系の異なる場所に送られる」ことが分かりました。

感覚神経から胸腹部神経節に送られた情報は、さらに別の神経(二次神経)によって脳へ送られる必要があります。そこで、感覚神経が種類ごとに層状に分布していることを利用して、それぞれの層に樹状突起を持ち、そこから脳に軸索を延ばすような二次神経を標識する発現誘導系統を次にスクリーニングしました。たとえば、脚の関節の曲がりや動きを検知する「弦音器官」の神経は、一部が脳に直接投射し、残りは胸腹部神経節に投射します。胸腹部神経節で弦音器官からの情報を受け取る二次神経は、脳に直接投射する神経と同じ脳の場所に、軸索を延ばしていました。同じように、翅や平均棍の付け根にあって傾きや動きを検知する「鐘状感覚子」の神経は、脳に直接投射する神経も、胸腹部神経節で鐘状感覚子からの情報を受け取って脳に伝える二次神経も、脳の同じ場所に軸索を延ばしていました。これによって、「ある種類の感覚器官から直接脳に投射する神経も、間接的に情報を伝える二次神経も、経路によらず脳の同じ場所に情報を伝える」ことが分かりました。

【2】特定の神経だけで遺伝子を発現させて行う、個々の神経の機能の解明

今回の研究で発見した20種類以上の体性感覚神経や二次神経は、すべて「発現誘導系統」を使って標識されています。そのため、GFPだけでなくさまざまなタンパク質の遺伝子を特定の神経細胞だけで発現させて、その細胞の機能を調べることが可能です。これは哺乳類を使った研究ではほぼ不可能な、ショウジョウバエを使った研究の大きな強みです。

私たちは、まず神経細胞の活動度に応じて蛍光強度が変化するGCaMPタンパク質を特定の細胞で発現させて、特定の神経がどのようなときに活動するかを調べました。ショウジョウバエは体長2ミリほどの小さな生物ですが、頭部に0.4ミリ程度の小さな穴を開けて金属プレートに接着し、ハエの下に空気流で浮かせた小さなトラックボールを置いてその上を歩かせたり、トラックボールを下げて空中に浮遊した状態にしたりして、二光子レーザー顕微鏡で神経の反応を観察しました。その結果、脚から脳に投射するある種類の神経は、脚を動かすときに強く反応するのに対し、別の種類の神経は脚がボールに接地しているときに強く反応するなど、神経の種類によって反応パターンが異なることが分かりました。

さらに、神経細胞の電位変化を阻害する「内向き整流カリウムチャネルタンパク質(Kir)」を特定の細胞で発現させて、その神経の活動だけを特異的にストップさせたときにどういう影響が起こるかも解析しました。ハエは、地面に止まっているときに前方から強い風を受けると、踏ん張って身構えます。一方空中にいるときは、同じ強さの向かい風を受けると翅を羽ばたかせて飛翔し、踏ん張ることはありません。風の情報は頭部にある触角で検知していることが分かっていますが、同じ風の情報を検知しても、脚が地面についているかどうかによって、取る行動が異なるわけです。今回発見したそれぞれの神経経路を特異的に阻害して風への反応を調べた結果、脚先の接触を検知する体毛の感覚細胞や関節の動きを検知する細胞の神経経路を阻害すると、風に対して踏ん張る行動が失われるのに対し、表皮の変形を検知する細胞の神経経路を阻害しても、行動は変化しませんでした。これによって、体性感覚神経の中でも特定の種類の感覚細胞からの情報が、特定の行動の制御に結びついていることが分かりました。

私たちの研究室は、これまで視覚・嗅覚・味覚・聴覚・学習記憶などさまざま脳機能の中枢にある膨大な種類の神経について、そのタイプの神経だけで遺伝子発現を誘導できる系統を多数作成して公開してきました。公開された系統を使って他の多くの研究者がこれらの中枢の神経機能の解明に挑み、大きな成果を上げています。体性感覚中枢についても、今回公開する系統を使って今後多くの研究者が機能解明に挑み、新しい研究分野を広げてゆくと期待されます。

【3】哺乳類神経系との高い類似性と、脳の進化に関する新しい知見

今年のノーベル医学生理学賞は、私たちの体の24時間の周期を決めている体内時計の分子メカニズムの発見について贈られました。この仕組みは最初にショウジョウバエで発見され、のちにそれが哺乳類でも共通であることが分かりました。今回の私たちの研究で最も興味深い発見のひとつは、新たに明らかになった昆虫の体性感覚神経系の構造が、哺乳類のそれと非常に似通っていたという事実です。【1】で述べたような「感覚器官の種類ごとに異なる場所に情報が送られる」「体の場所ごとに異なる場所に情報が送られる」「同じ種類の神経から異なる経路で情報が同じ場所に伝えられる」といった特徴は、昆虫も哺乳類も同様です。また今回の研究で初めて、昆虫の体にあるすべての種類の体性感覚神経がどのような順序で胸腹部神経節に層を作っているかが分かりましたが、この層の順番は、哺乳類も昆虫も同じように

温度や痛みを感じる細胞 → 体毛の接触を検出する細胞 →表皮の変形を検出する細胞 → 関節の曲がりや動きを検出する細胞

の順になっていました。層の順番は哺乳類では背側→腹側、昆虫では腹側→背側と逆転していますが、発生学的に哺乳類の通常の姿勢は昆虫とは背腹が逆転していることを考えると、ちょうど同じ順序になります。
(※ なお、昆虫では脚の先端や翅の前縁に味覚を感じる細胞もあり、これらは体毛の接触を検出する細胞よりも腹側に投射しますが、哺乳類には対応する細胞はありません。両生類や魚類の一部には体にも味覚細胞がありますが、その構造はよく分かっておらず、今後の研究が期待されます。)

昆虫を含む節足動物と、私たち哺乳類を含む脊椎動物は、カンブリア紀の前のエディアカラ紀(約6億2千万?5億4千万年前)の終わりにはすでに分かれていたことが知られています。それより前の生物は化石が残っていないため、節足動物と脊椎動物が分かれる前の共通の祖先がどのような形をしていたかは分かっていません。ゲノムの解析から、体内時計だけでなく体の節構造を作る遺伝子(1995年ノーベル賞)などさまざまなメカニズムが節足動物と脊椎動物で共通なことが分かっています。神経伝達物質のような神経の機能に関わる多くの遺伝子も共通なので、神経細胞それ自体は節足動物と脊椎動物の分化より前から存在したことが確実です。しかし、左右対称なボディプランを持つさまざまな生物の脳や中枢神経系が、個別に進化したのか共通の祖先から進化したのかは、まだ結論が出ていません。

嗅覚・視覚・味覚中枢の構造が昆虫と哺乳類で似ていることは以前から知られていました。私たちは少し前の研究で、音や重力を検知する中枢の構造も昆虫と哺乳類でほぼ同じであることを発見しました(2009年ネイチャー誌)。今回の研究で、五感の残る最後のひとつである体性感覚についても、基本構造が共通していることが分かりました。

似たような構造が見られると言っても、鳥の羽とコウモリの羽のように異なる進化の結果偶然似たような構造になった「収斂進化」の可能性もあります。哺乳類と昆虫の脳の類似性も、一部の感覚系だけで見つかっていた時点では収斂進化の可能性が指摘されていました。しかし今回の研究で、一部の感覚だけでなく五感すべてで類似性が確認されたことになりました。ここ数年の研究で、海馬に相当する学習記憶中枢や大脳基底核に相当する運動制御系でも、高い類似性が指摘されています。こんなに偶然がくり返されるというのは、むしろ考えにくいことです。本研究成果により、基本的な五感の感覚情報処理や学習記憶系、運動制御系をそなえた脳を持つ共通の祖先が6億年近く前に存在し、そこから私たち哺乳類と昆虫の脳が進化してきたというシナリオの可能性が、非常に高くなりました。

※ 本成果は主に日本学術振興会科学研究費基盤研究S「ショウジョウバエ行動制御神経回路のコネクトミクス解析」、および国立研究開発法人日本医療研究開発機構(AMED)の革新的先端研究開発支援事業(AMED-CREST)「脳神経回路の形成・動作原理の解明と制御技術の創出」研究開発領域における研究開発課題「感覚情報を統合する高次神経の回路構造と機能のシステム解析」(研究開発代表者:伊藤 啓)の支援を受けて行われました。なお、本研究開発領域は、平成27年4月の日本医療研究開発機構の発足に伴い、国立研究開発法人科学技術振興機構(JST)より移管されたものです。

発表雑誌

雑誌名:
Science 11月3日号
論文タイトル:
“Topological and Modality-specific Representation of Somatosensory Information in the Fly Brain”
著者:
Asako Tsubouchi, Tomoko Yano, Takeshi K. Yokoyama, Chloe Murtin, Hideo Otsuna & Kei Ito

添付資料

図1:昆虫と哺乳類の体性感覚器官
図1:昆虫と哺乳類の体性感覚器官

 

図2:体性感覚神経の軸索の末端が胸腹部神経節に作る層状構造
図2:体性感覚神経の軸索の末端が胸腹部神経節に作る層状構造

 

図3:末梢から直接脳に伸びる一次感覚神経と胸腹部神経節から脳に伸びる二次介在神経が、体の部位や情報の種類ごとに脳の異なる場所に線維を伸ばす(11種類の神経の重ね合わせ)
図3:末梢から直接脳に伸びる一次感覚神経と胸腹部神経節から脳に伸びる二次介在神経が、体の部位や情報の種類ごとに脳の異なる場所に線維を伸ばす(11種類の神経の重ね合わせ)

 

図4:昆虫と哺乳類の体性感覚神経回路の比較
図4:昆虫と哺乳類の体性感覚神経回路の比較

 

図5:昆虫や哺乳類にいたる進化の道のりの概略
図5:昆虫や哺乳類にいたる進化の道のりの概略

 

問い合わせ先

東京大学分子細胞生物学研究所 脳神経回路研究分野
准教授 伊藤 啓(いとう けい)
TEL:03-5841-2435
FAX:03-5841-7837
E-mail:itokei"AT"iam.u-tokyo.ac.jp
 

AMED事業に関すること


国立研究開発法人日本医療研究開発機構(AMED)
基盤研究事業部 研究企画課
TEL:03-6870-2224 FAX:03-6870-2243
E-mail:kenkyuk-ask"AT"amed.go.jp

※Emailは上記アドレス"AT"の部分を@に変えてください。

掲載日 平成29年11月3日

最終更新日 平成29年11月3日