プレスリリース 脳脊髄の髄鞘再生をMRIで可視化することに成功―多発性硬化症や神経再生医療に新たな「眼」―

プレスリリース

学校法人慶應義塾 慶應義塾大学医学部
国立研究開発法人日本医療研究開発機構

慶應義塾大学医学部生理学教室(岡野栄之教授)、整形外科学教室(中村雅也教授)、内科学教室(神経)(鈴木則宏教授)、放射線科学教室(診断科)(陣崎雅弘教授)の合同研究チームは、MRIを用いて脳脊髄の髄鞘(注1)の再生を可視化することに成功しました。

本邦で約2万人が患う多発性硬化症(注2)は、脳脊髄の正常な機能に欠かせない髄鞘が崩壊と再生を繰り返す神経難病であることで知られていますが、既存の技術ではその再生を可視化することは困難でした。また、脊髄損傷に対するiPS細胞を用いた神経再生医療においても、髄鞘の再生が機能回復に重要ですが、髄鞘再生を患者の負担なく可視化する方法は確立しておらず、神経再生医療実現化の妨げになっていました。

今回、本研究チームが開発した新たなMRI撮影法(ミエリンマップ法)は、すでに多くの病院に設置されているMRIを用いて約10分程度の短時間で撮影可能であり、患者への負担は極めて低いものです。今後、多発性硬化症などの神経難病の診療や、脊髄損傷に対する神経再生医療の実現化に大きく寄与するものと期待されます。

本研究成果は、2016年3月2日(米国東部時間)に「The Journal of Neuroscience」オンライン版に掲載されます。

研究の背景

脳脊髄において、神経細胞の電気信号はその突起(神経軸索)を通じて、別の神経細胞に伝わります。髄鞘はこの神経軸索を幾重にも包む構造物であり、電線における金属ワイアを包むビニル膜のように「絶縁体」として機能しており、電気信号が流れる速度(神経伝導速度)を最大で約100倍に高速化しています(下図左)。

神経難病である多発性硬化症は、この髄鞘が崩壊と再生を繰り返す疾病です。髄鞘の崩壊(脱髄)が生じると神経伝導が妨げられ、麻痺や感覚障害などの症状が出現しますが、髄鞘が再生(再髄鞘化)すると症状は一般に消失します(下図右)。これまで髄鞘の状態、特に再髄鞘化を可視化する方法は確立しておらず、多発性硬化症の患者の診断や正確な病状評価の支障となり、髄鞘の再生を促進する新たな治療薬を開発する上での妨げとなっていました。
説明図・1枚目

また、脊髄損傷に対するiPS細胞による神経再生医療においても、再髄鞘化が機能回復に繋がること(注3)は既に本学より発表しているところですが、実際の患者において再髄鞘化を可視化する方法は確立しておらず、神経再生医療の実現化において大きな課題となっていました。

今回、本研究チームは、➀患者の負担が軽く済むこと、②既に汎用されているMRIで実施可能なこと、➂医療現場の実情に応じた短時間の検査であること、などの条件を満たしうる、髄鞘を可視化する新たなMRI撮影法の開発を試みました。

研究の概要と成果

髄鞘は、周辺の神経組織よりも脂肪分に富んでいる(水分が少ない)という特徴を持っています。一方、MRIは水分子の動きを可視化することに長けており、特に近年開発された新たな撮影法であるq-Space imaging(QSI)法(注4)を用いれば、髄鞘の有無を推定することが理論上は可能でした。しかしQSI法をヒトに実施するためには、一般に1時間から数時間の撮影時間を要し、その間患者は動くことができません。このようにQSI法の臨床応用は、患者の負担が大きすぎることから非現実的でした。

研究チームはQSI法によって得られる様々な情報のうち、髄鞘に関係する情報のみを抽出する方法を模索し、最も効率良い撮影方法や、撮影時間を短くするための計算方法を考案し、「ミエリンマップ法」と名づけました。ミエリンマップ法によって髄鞘が正しく可視化されていることを様々な実験動物で証明し、さらに、既に慶應義塾大学病院をはじめ多くの病院に設置されているMRI(3テスラ(3T)装置)を用いて、約10分間で撮影可能であることを確認しました。

説明図・2枚目
本学倫理委員会の審査承認を得て、慶應義塾大学病院に通院中の多発性硬化症患者にご協力いただき、ミエリンマップ法によるMRI撮影を受けていただいたところ、髄鞘の挙動を正しく可視化できることが確認されました。特に、これまでのMRIでは確認できなかった再髄鞘化が容易に可視化でき、多発性硬化症の症状と相関していることが確認されました。

今後の展開

本研究により以下のような展開が期待されます。

1)多発性硬化症の診療に応用
多発性硬化症の早期診断や病状の評価が容易になります。
近年開発が進められている髄鞘再生医療の効果判定にも有用と考えられます。
2)神経難病、脳血管障害、精神疾患などの評価に応用
昨今、様々な神経疾患や精神疾患で髄鞘の異常が指摘されています。
実際の患者において髄鞘異常の有無を調べることが可能になります。
3)神経再生医療の実現化に応用
iPS細胞による神経再生医療において、髄鞘再生は重要な意義を持ちます。
髄鞘再生の判定を行うことが可能になり、神経再生医療の実現化に寄与します。

特記事項

本研究は、脳科学研究戦略推進プログラム(文部科学省)、革新的技術による脳機能ネットワークの全容解明プロジェクト(文部科学省、国立研究開発法人日本医療研究開発機構)、再生医療実現拠点ネットワークプログラム 疾患・組織別実用化研究拠点(拠点A)「iPS細胞由来神経前駆細胞を用いた脊髄損傷・脳梗塞の再生医療」(国立研究開発法人日本医療研究開発機構)、MEXT/JSPS科研費(26117007,25670424)、戦略的創造研究推進事業 JST-CIRM共同研究プログラム「微小環境がヒトiPS 細胞及び胎児由来神経幹細胞の分化・腫瘍化に及ぼす影響(国立研究開発法人科学技術振興機構)および一般社団法人日本損害保険協会研究助成金による助成を受けて実施されました。

論文について

タイトル(和訳):“Application of q-Space diffusion MRI for the visualization of white matter.”
(q空間拡散MRIの応用による白質の可視化)

著者名:藤吉兼浩*、疋島啓吾*、中原仁*、辻収彦、畑純一、許斐恒彦、永井俊弘、芝田晋介、金子慎二郎、岩波明生、百島祐貴、高橋愼一、陣崎雅弘、鈴木則宏、戸山芳昭、中村雅也**、岡野栄之**
* co-first authors **co-corresponding authors

掲載誌:「The Journal of Neuroscience」オンライン版

用語説明

(注1)髄鞘
髄鞘は、神経軸索を包む脂肪分に富んだ構造物で、脳脊髄ではオリゴデンドロサイトと呼ばれる細胞が形成しています。髄鞘による神経伝導速度の加速化は、ヒトを含む高等動物の神経機能には必須です。髄鞘形成は主に幼少期に生じ、様々な神経機能の成長発達に関連していますが、逆に髄鞘の障害は神経機能に異常を来す原因となります。最近では脳梗塞、脊髄損傷、アルツハイマー病などの認知症疾患、筋萎縮性側索硬化症などの神経変性疾患、統合失調症などの精神疾患においても髄鞘障害の関与が指摘されています。
(注2)多発性硬化症
多発性硬化症は原因不明の神経難病で、髄鞘の崩壊(脱髄)と再生(再髄鞘化)が繰り返す疾病です。世界で約250万人、本邦で約2万人が本症を患っており、わが国の難病法の指定疾患になっています。主に20歳代から30歳代の若年女性に好発し、無治療では一般に40歳代で歩行困難となり、平均寿命が約10年短くなることが知られています。根本的治療法はありませんが、進行を抑える治療薬が複数種類開発されており、最近では髄鞘の再生を促す治療薬の開発が進められています。
(注3)iPS細胞による損傷脊髄の再髄鞘化
本学2016年1月18日付のプレスリリース(「ヒトiPS細胞由来のオリゴデンドロサイト前駆細胞を脊髄損傷に移植し再髄鞘化に成功―脊髄損傷に対するさらなる機能回復につながる発見―」)をご参照ください。
(注4)q-Space imaging(QSI)法
MRIによって水分子の挙動を把握する拡散強調撮像法(diffusion-weighted imaging(DWI)法)は、脳梗塞の早期診断に広く利用されています。様々な条件設定でDWI法を撮影し、統合解析したものがQSI法です。QSI法ではミクロン(μm)レベルでの水分子動態を把握することが可能になります。しかし、多数の条件でDWI法を撮影するため、撮影に1時間から数時間要することから、実際の臨床応用は困難でした。

お問い合わせ先

本発表資料のお問い合わせ先

慶應義塾大学医学部生理学教室
教授 岡野 栄之(おかの ひでゆき)
TEL:03-5363-3746 FAX:03-3357-5445
E-mail:hidokano“AT”a2.keio.jp

慶應義塾大学医学部整形外科学教室
教授 中村 雅也(なかむら まさや)
TEL:03-5363-3812 FAX:03-3353-6597
E-mail:masa“AT”a8.keio.jp

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E-mail:med-koho“AT”adst.keio.ac.jp

本事業に関するお問い合わせ先

日本医療研究開発機構 戦略推進部脳と心の研究課
TEL:03-6870-2222
E-mail:brain-pm“AT”amed.go.jp

※E-mailは上記アドレス“AT”の部分を@に変えてください。

掲載日 平成28年3月2日

最終更新日 平成28年3月2日