アーカイブ インタビューNo.2 「ゲノム医療と社会の接点 ― ELSIの重要性」

赤林朗先生プロフィール写真
赤林 朗
東京大学大学院医学系研究科・医学部 教授

大学卒業後、臨床医として抱いた「医療は患者の思いを受け止めきれていないのではないか」という疑問を出発点に、今、「現代医療・科学技術が抱える倫理的問題を整理し、よりよい処方箋を提供すること」を目標に、一人でも多くの方に生命・医療倫理に関心を持っていただき、ともに考えていける場を提供していきたいと考える赤林 朗先生。
医学研究における倫理と、その未来像について伺いました。

― ゲノム医療研究において、昨今ますますELSIの重要性が唱えられていますね。

ELSI研究(Ethical, Legal, Social Implications)とは、ライフサイエンスと医療が生み出す倫理的・法的・社会的問題を、学際的に研究する学問です。DNAの二重らせん構造の発見者としても有名な、J. ワトソン博士が、「ヒトゲノム計画の年間予算の5%をELSIに投入するべき」と提唱したのがきっかけで、米国では1990年代からELSI研究プログラムの研究資金が増大しました。

ゲノム研究・医療においては、例えば、次世代までつながる遺伝性疾患の情報を、誰がどこまで患者さん及びその家族に伝えるか、というようなことが倫理的な問題になります。ELSI研究は、そのような意味で、ゲノム研究の発展により、研究・医療に欠かせない分野として発展してきたと言えるでしょう。

ELSIは、ゲノム医療に限ったことではなく、全ての研究・医療に関連します。私は、この15年位の間、例えばAMEDで行っている、脳科学研究推進事業や再生医療推進事業でも、ELSI予算を5%つけることが必要だ、といつもヒアリングの最初には、このスライドを使いました。ところが、少し前に、ニューヨークでの倫理関連の会議で、ワトソン博士と直接、長い時間お話しした時に、日本での状況やワトソン博士を引き合いに出していつも発言している、というようなお話をしましたら、「いや、私は5%ではなく、最初3%と言っていたんだ」というお話を伺い、はて、私はワトソン博士をずいぶん自分に都合よく利用してしまったものだ、と思い、お詫びしたというようなエピソードもあります。いずれにしても、ワトソン博士は、研究倫理にも大変造詣の深い方です。日本人のゲノム研究者の方も、優秀になればなるほど、研究倫理をしっかり学ばなければならない、というメッセージをワトソン博士は出しておられるのでしょう。

写真1:赤林先生

― 医学研究における倫理は、どうして必要なのでしょうか?

ひとの命や健康に関わる医学研究においては、研究参加者への安全上・人権上の配慮はもちろんのこと、研究対象にヒトゲノムが加わって以降は、個人情報の管理の厳格化も求められるようになりました。さらには、後を絶たぬ研究不正が医学研究の社会的信頼を損なっているのが現状です。つまり、医学研究に従事する者の「倫理」が、これまで以上に問われているのです。そもそも、倫理とは、「礼記」(らいき)という中国の古典に出てくる言葉で、"人倫のみち。実際道徳の規範となる原理。道徳。"とされています。つまり、倫理とは、平たく言えば、"人間にとってふさわしいあり方や振る舞い方"だと言えます。

赤松先生イメージ01  
赤林先生イメージ02  

― なるほど。では、医学研究における倫理(医療倫理)とは、いったい何でしょうか?

医療倫理は、研究倫理、臨床倫理、公衆衛生倫理の3つに分けられると考えられます。研究倫理とは、研究活動に際して研究者が守るべき規範で、主に研究参加者への説明、人権やプライバシーの保護、公正な研究活動などが挙げられるものです。臨床倫理は、主に医療現場で求められる規範で、インフォームド・コンセントや患者の輸血、治療拒否、終末医療に対する医師の判断やあり方のことです。公衆衛生倫理は、疫病予防など公衆衛生の場で求められる倫理。例えば鳥インフルエンザ発生時の、感染予防の観点での個人の自由の制限(パターナリズム)と社会・経済活動の維持との間での秤のかけ方などです。ゲノム医療の場合についても、そのどれもが重要になりますが、とくに、研究倫理の遵守は課題となっています。

― 研究の現場でも、研究倫理を意識することが重要ですね。

研究者は、多くの場合、大学や研究所といった閉じた空間で研究活動をしていますが、その対象が、たとえばゲノム情報となった場合には、個人の遺伝子情報が、遺伝子検査の普及などで、研究室の中で簡単にやりとりされるようになっており、閉ざされた研究室であっても、社会とのつながりの中で、考える必要性が高まっています。研究倫理に反する行為は、時に人々の健康や命をも脅かしかねません。また、研究や研究者そのものに対する世間の信頼を失墜させます。まさに、研究倫理とは、決して断ち切ってはいけない"社会とのつながり"であると言えます。研究倫理は、"科学の進歩に貢献したい"という研究者の熱意(時に研究ファーストに陥りがち)と、研究に参加し、ゲノム情報や検体を提供する研究参加者の保護の間で揺れる振り子のようなものです。どちらに偏っても、健全な研究の進歩は望めません。

― なるほど。どちらにも偏らないように、より客観的な視点で、研究を見つめることがなければならない。

そこで必要なのは、「第三者の目」です。現在、国際的なガイドラインの基礎になっている「ベルモント・レポート」(1979年、日本語訳:臨床評価(Clinical Evaluation)2001; 28(3):559-68より:研究における被験者保護のための倫理原則とガイドライン)には、研究倫理の3原則として、以下のことが挙げられています。

  • 人格の尊重(研究参加者の人格を尊重し、研究目的やリスクをしっかりと伝える等)
  • 善行(社会的意義が少なく、またリスクの高すぎる研究は行わない等)
  • 正義(研究参加者を選ぶ際は、単に集めやすいという理由で選んではいけない等)

"こんなことは当たり前じゃないか"と思う人もいるかもしれませんが、実際の研究の場において、いちいちそれを研究者一人一人が判断し続けることには限界があります。そこで、こうした観点で客観的に見ることができる第三者の目である「倫理委員会」の存在が重要となります。倫理委員会は研究機関ごとに設けられ、そこで行われる研究が倫理的に正しいか検討、審査していますが、現在その中核を担う「中央倫理委員会」を設置する動きも進んでいます。中央倫理委員会制度が確立すれば、客観的かつ公正公平な統一的な倫理指針が作られ、倫理審査の質も向上し、多施設共同研究においても、複数の倫理委員会による重複審査が避けられるため、研究開始のスピードが速まるなど、様々なメリットが期待できます。

― 日本におけるこれまでの取り組みや、東京大学における先生の取り組みについて教えてください。

日本においては、1980年代に、大学や研究機関ごとに倫理委員会が設置され始め、現在では全国の大学や研究機関、医療機関等での倫理委員会数は1500に達します。しかし、医学研究をめぐる不祥事は、それでも幾度となく繰り返されてきました。ガイドラインや倫理委員会の設置は、第三者の目として重要ですが、それだけでは、倫理的問題が解決するわけではないのです。また、医学系出身の研究者と、それ以外の出身の研究者では、そもそも医療倫理を学ぶ機会が異なり、それに関する考え方のズレや温度差などがあります。そこで、出身や経歴によらず、幅広く研究者が医療倫理について学ぶ機会が必要と思っています。私はそこで、研究倫理を研究者と社会、双方に根付かせるメディエーター(両者の間にたって仲介する人)のような仕事が必要ではないかと考えるに至りました。そうした人材を育成し、研究倫理の考えを研究者の間にも広めていく必要があります。

2008年、東京大学医科学研究所の研究倫理スキャンダル(患者さんの試料の同意なしの研究利用)を契機として、まずは東京大学の医科学研究所に研究倫理支援室、本部にライフサイエンス研究倫理支援室を設置すべく尽力しました。次いで2009年、とりわけ人を対象とした医学研究の倫理を念頭に置き、東京大学医学部に研究倫理支援室を設置するに至ったのです。東京大学総長室も、医学部も、研究倫理支援室の整備に積極的に取り組む姿勢を前面に押し出しました。その背景には、社会・患者さんには医学研究を信頼していただき、研究者には研究倫理の重要性を自覚させる目的がありました。私が、研究倫理支援室の業務を行いながら実感していることは、現代の医学・医療に必須な、新たなる、「研究倫理支援学」の萌芽です。この研究倫理支援の業務と学問が、医学・医療の健全な発展、そして何よりも患者さんの恩恵につながることを願っています。

― 研究倫理は、研究者にとって、まさに他人ごとではない、ということですね。

ゲノム研究の進展により、ゲノム情報が簡単に得られる時代となり、一般社会の人にとっても、患者や健常者にかかわらず、"いつの間にか自分(または細胞、遺伝子情報など)が研究対象になっていた" という事態も起こり得るようになりました。また、研究者にとっても、閉ざされた研究室の中とはいえ、研究において個人のゲノム情報を取り扱う限り、社会とのつながりを意識しなければならない時代となっています。つまり、誰にとっても、研究倫理は他人事ではないということです。一般の方は自分の体や個人情報を守るために、研究者にとっては自身の研究を守るために、研究倫理に関心を持ち、遵守することが大切なのです。

写真2:CBEL (Center for Biomedical Ethics and Law、東京大学生命・医療倫理教育研究センター
写真3:赤松先生
 

― ゲノム研究者が知っておくべき知識があればご教示ください。

医療研究におけるELSIついて、より詳しく知りたい方は、ぜひ我々のホームページ(東京大学大学院医学系研究科・医学部 研究倫理支援室)と 私共が確立した生命・医療倫理の拠点であるCBEL(Center for Biomedical Ethics and Law)のホームページ (東京大学生命・医療倫理教育研究センター)をご覧いただければと思います。(左写真は、CBELのリファレンスセンター)

― 最後に、ゲノム研究者へのメッセージをいただけますか?

ゲノム研究者の皆さん、研究は本当に楽しいです。またゲノム研究の成果は直接患者さんの利益につながる可能性が大きい領域です。しかし、研究は社会と密接なつながりを持っています。研究者の皆さんには、研究者の社会的責任をしっかりと自覚し、また、研究倫理をはじめとするELSIに十分関心をもっていただきたいと思います。ゲノム研究においては、被験者保護と、個人情報保護が大切であり、これは、研究者の社会的な義務でもあります。ゲノム研究者の皆さまの、益々のご発展、ご活躍を祈念しております。

(取材日:2017年9月4日)

インタビュー映像

推薦論文

タイトル
入門・医療倫理I
著者名
赤林 朗(編)
出版社名
勁草書房
発行年
2005年
推薦趣旨
日本における現代的な医療倫理学は、2005年の今、第二段階に入っているといってよいだろう。1980年代の黎明期から、欧米諸国の取り組みの輸入という第一段階を経て、現在、日本で本格的な取り組みが行われ、その取り組みを世界に示していくことが期待されている。そのような中で本書は企画された。既に、医療倫理学の領域で、翻訳書も含め相当数の教材用著書は出版されている。本書は、それらの蓄積の上に、現時点における日本の「標準的で、体系的な教科書」を目指したものである。(「はじめに」より引用)
タイトル
入門・医療倫理II
著者名
赤林 朗(編)
出版社名
勁草書房
発行年
2007年
推薦趣旨
『入門・医療倫理I』から、本書の最後のケース集までを読み通していただければ、医療倫理学についての主要な理論や論点について、ほぼその全容を理解できることになる。現場の医療従事者等にとって、本書以上の理論的内容を勉強したり理解したりする必要はないといってもよい。本書で展開されてきた理論を反映させ実践する場が、臨床や研究の現場となるのである。これが、現在の、日本における学問としての医療倫理学である。(「はじめに」より)
タイトル
入門・医療倫理Ⅲ
著者名
赤林 朗&児玉 聡(編)
出版社名
勁草書房
発行年
2015年
タイトル
研究倫理とは何か:臨床医学研究と生命倫理
著者名
田代 志門(著)
出版社名
勁草書房
発行年
2011年
タイトル
The Future of Bioethics: International Dialogues
著者名
赤林 朗(編)
出版社名
オクスフォード大学出版局
号、発行年
816 pages, 09 January 2014, 978-0-19-968267-6
推薦趣旨
本書には、生命倫理学の21のトピックに関して、西洋と東洋の研究者による真摯な対話が収録されています。生命倫理学の分野において、東西文化間の交流・対話を真に実現している書籍はこれまでなく、本書はその最初の書籍であると自負しております。グローバル化した世界における生命倫理学の将来の姿がここにあります。

研究者経歴

東京都生まれ。 1983年に東京大学医学部医学科卒業。1990年に東京大学大学院医学系研究科博士課程修了(医学博士)。 1993年に米国The Hastings Center Visiting Scholar、1999年東京大学大学院医学系研究科講師、2000年京都大学大学院医学研究科社会健康医学系専攻医療倫理学分野教授を経て、2003年より現職。2005年より、東京大学医学部倫理委員会委員長。 平成29年5月からAMED「研究倫理に関する情報共有と国民理解の推進事業(ゲノム医療実用化に係るELSI分野)」のプログラムスーパーバイザー(PS)を務める。 専門領域は、医療倫理学、臨床倫理学、研究倫理。

掲載日 平成29年10月19日

最終更新日 令和2年3月30日